毎日新聞 岡山版(平成18年9月13日)「岡山大研Qコーナー」より抜粋
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岡山を代表する酒米「雄町」。有名な兵庫の「山田錦」など数々の酒米の祖先だが、栽培の難しさから一時期は「幻」と言われるほど激減した歴史を持つ。
岸本甚造
岡山市雄町をエリアとする市立高島公民館などによると、ルーツの稲穂を見つけたのは雄町村の農家、岸本甚造。1859(安政6)年ごろ伯耆(鳥取県)の大山へ参拝し、その帰りに2本を持ち帰って育成した。当時は「二本草」と名付けられたが、酒米としての評価が高まるにつれ、土地の名をとって「雄町米」と呼ばれるようになったという。△背が高く作りづらい△収量が少ない、などの理由から、特に戦後は絶滅寸前にまで追い込まれた。『復活』したのは1980年代。赤磐市の利守酒造が、地元の神社が細々と作っていた雄町米を譲り受け、農家に生産を委託した。
大山町
鳥取県側に視点を移して調べてみると、何と同県大山町生まれの「強力」と呼ばれる古い酒米があることがわかった。復活させた中川酒造(鳥取市)によると、強力米は明治の中ごろ、同県東伯郡下中山村(現・大山町)の農家、渡辺信平が在来種から育成したのが始まりとされる。同酒造の中川盛雄社長が鳥取大学にわずかに残っていた種もみを譲り受け、1989年に復活。
科学的根拠
「大山」というキーワードで結ばれた二つの酒米。独立行政法人・酒類総合研究所(東広島市)によると「確かに性質は良く似ている」という。共通する特徴として背の高さや収量の低さ、「線状心白」がある。線状心白は雄町米の血をひく米(山田錦など)にもみられる。「他の全品種のDNAと比べないと関連性を特定できない。」との答え。これ以上は専門的に研究しないと無理のようだ。時代の流れで「幻」となりかけた二つの酒米。ルーツの特定には至らなかったが、雄町米も強力米も「地元の米で良い酒を」という蔵元の熱い思いが復活の原動力になった。酒米が蔵元を呼んだのだろうか。
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